ブラウブリッツ秋田 総社神社

ブラウブリッツ秋田がシーズン前に必勝祈願を行う神社は総社(そうしゃ)神社です。

秋田駅からバスで約20分、住宅地の中の大木に囲まれた場所にあります。神社のすぐ南の道は、元々、神社の敷地に作られたためなのか、大木が優先され車は通れません。車道的には道が分断されてます。オー・マイ・カー

神社の建物はこじんまりしてます。

梅の木がありましたが、まだ、硬い蕾でした。その代わり椿の花が咲いてました。

総社神社は川尻と言う場所にあたり、古くから集落があったようです。雄物川の氾濫原の中では標高の高い丘陵地(河岸段丘?)に位置するようです。秋田市街をみると川反の直線の人為さが目立ちますね。

総社神社の南東、丘陵地の際に位置するのが、高清水の酒蔵です。酒蔵=水の豊かな所ですよね。


雄物川旭川、太平川、3つの川が集まるところ。日本海に向けて開けた秋田市、「川元」。海へと注ぐ、水の旅も終わりに近いこの場所に高清水の蔵があります。敷地内の、旧秋田藩主・佐竹公の御用井戸と水脈を一つにする、と言われる井戸。この水が、高清水の命です。硬度49.7の軟水。酒の仕込みにふさわしい名水を生かして、高清水はその味わい、品質に、磨きをかけてきました。この水でなければならない、旨さ。この水でしかつくれない、酒。山の、森の、命を託した水。雨の、雪の、この土地の四季を映した、水。その水は、秋田の米と出会い、秋田の杜氏の手で、酒になります。そう、高清水は秋田でなければつくられない、秋田の恵みの地酒です。

敷地をぐるっと回ると、工場に隣接した社員寮もあったりしました。酒蔵の見学会は中止でした。残念。

次は、雄物川の舟運で栄えた新屋に行ってみることにします。

【総社神社の由緒】
神社由緒古記録によると、神社の創祀は神亀元年(七二四年)になるという。神亀元年三月八日の夜半に、三森山(現秋田市千秋公園)という所に突然と神光が飛来した。その光は真昼の如き輝きを発して、山河は動鳴したとされる。近里遠村の人々は強い驚きを感じていたところ、「我は大己貴神(おおなむちのかみ)なり。今ここに一宮を創建し祀らば、国中安泰・諸人守護・五穀豊穣といたさん。」という神勅が下った。そこで人々が神殿を建立し、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)と味鋤高彦根神あじすきたかひこねのかみ)を左右相殿として祀ったのが始まりと伝える。

御璽(みしるし)は影向の時に天降りの磐座をもって社殿に納めたものである。これより三嶽山総社大明神と称して崇敬してきた。源頼朝公が東征後、家臣畠山庄次郎重忠に命じて大嶽山、小嶽山、光明山の三森を神領として広く村落を鎮守し崇敬したとされる。

古文書
慶長七年(一六〇二年)に佐竹氏が常陸から国替えにより秋田を知行する際に居城を三森山(神明山ともいう)に定めたため、翌年に川尻郷下浜(したはま)(秋田市楢山川口境)に仮遷座と相成ったのである。下浜の地は低地多湿のために神地としてはふさわしくなかったが、その後久しく元禄七年(一六五九年)に再び川尻上野岱の仮社地へ遷された。ここに社地成就して社殿造営にあたり、本遷宮は宝永四年(一七〇七年)九月六日であった。以来川尻郷一帯(山王・川尻・川口・楢山)の鎮守として現在に至るものである。

近世には藩主佐竹氏が累代の崇敬をいたし社領の寄進も多かった。川尻の地は景観がよく文人墨客の尋来も度々あり、神宝・古記録等の文物も多数収納されていたが、昭和六年の秋田市火事で烏有に帰してしまった。

秋田藩内でも重要な社として、明治には県社に列格されるなど、境内は香雲の霞む森樹に囲まれて、今尚人々の崇敬が篤い神社となっている。